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石巻へ帰る高速バスの車中にて 東日本大震災からちょうど1年に寄せて

東日本大震災について震災直後からつぶやきまくったりはしたものの、

ブログにエントリーするのは初めて。

ちょうど1年経つ今日、結構自分の周りでも記事を書いている人も多いので書きます。

新宿から高速バスに乗って仙台に戻り、そこからまた高速バスで石巻に戻りながらのエントリーです。

 

我が故郷、石巻

多少自己紹介にも繋がるのだけれど、生まれは宮城県石巻市

まさか自分の故郷がこんな震災なんかに巻き込まれることになるとは

ほんとに夢にも思いませんでした。

穀町幼稚園→石巻市立山下小学校→石巻市石巻中学校→宮城県石巻高等学校


日本

と、高校まで石巻の学校に通いました。↑の地図上に幼稚園から高校まで

全部入っています。

仙台の予備校に通った後、進学で上京し、

一旦宮城、石巻を離れることとなりました。

そして仕事の都合で今現在は仙台勤務となっています。

 

東日本大震災の当日は、会社の行事で東京に。

2011年3月11日。金曜日。

その日の朝、3月5日から運転を始めた東北新幹線はやぶさ」に乗って、

東京の本社に向かっていました。

そして会社の本社が入っているビルの最上階である41階のホールで着々と行事が進んでいきました。

2011年3月11日14:46頃、大きな揺れを感じました。

テレビ等で「突き上げるような」という表現を聞くことがありましたが、

本当にその意味を理解した瞬間でもありました。

ビルの41階ということもあり、やはり立ったままの状態でいるのが困難な状況でした。

その時点では震源地は東京だと勘違いしていましたが、

すぐにパソコンのYahooトップページを見て、それが自分の地元、

宮城だということが分かりました。

宮城県北部 震度7

それを見て、すぐに実家に電話を入れましたが繋がらず。

会社では、帰るか、帰らないか、そもそも帰ることができるのかという話になり、

揺れの状況から新幹線は間違いなく動かないし、在来線もストップと

感覚的に分かっていたので、だとしたら車か!?という話をしていました。

ふと視線を外に移すと、お台場のあたりから火事の煙が出ており、

改めてとんでもない地震が起きたのだと理解しました。

私は一瞬、車で帰るのも困難ではないかと思い、宮城に戻ることを躊躇いかけましたが、

それでも何がなんでも帰らなきゃという思いで帰る決断をしました。

(今考えると、ここで帰る決断をしなかったら、当分宮城へは戻れなかったことになるのですよね)

 

長い長い、宮城に戻るまでの道のり。まずは最初の奇跡。

まず最初の奇跡は、レンタカーを確保できたことでした。(しかも3台。)

ちょっとでも時間が遅れていたら、間違いなく帰宅は不可能だったと思います。

とっさの機転でレンタカーを確保してくださったスタッフの方に感謝です。

そして、本社ビルに入っていたコンビニで、飲み物、食料を買いました。

それと長期戦になることは明らかだったし、最重要だったのが携帯の充電池。

シガーソケット経由での携帯充電器も購入しました。

テレビの映像は、携帯のワンセグから見続けていました。

実家には引き続き電話をするもかからず。宮城に戻るまでの時間、ひたすら電話をし続けていました。

おそらく、人生で最も電話をかけた1日だったと思います。

(結局、石巻は電話の基地局が壊滅したので物理的に繋がるはずがなかったことは後から知ったことです。)

35階のコンビニで購入後、41階に戻り、ちょっとしてからレンタカー屋へ向かうこととなりました。

エレベーターは停止していました。41階分を非常階段で降りることになりました。

そして本社ビルがある東京駅横から、神保町のレンタカー屋さんまで歩いて向かうことに。

途中、ヘルメットを被りながら背中には非常用の物資が入ったリュックを背負いながら

歩くビジネスマンやタクシーを待つのに長蛇の列を作っている状況を見て、

本当に帰ることができるのかと何度も感じていました。

 

東京都を脱出できたのは、出発から8時間後のこと。

1時間ほど歩いて神保町のレンタカー屋さんに到着。

車の手配をしてもらっている最中に何人もの人が、車を頼って

店舗に来ましたが、当然ながらその時点で貸し出しができる車は皆無。

何度も店員さんも断りを続けていました。張り紙で、今日は貸せませんと書いても

それでも人はたくさん店舗を訪ねました。

いざ出発、はしたものの、車は全く動かず大渋滞。

車道を平気で歩行者は歩いているし、クラクションも数多く鳴っていました。

実家の状況も分からないし、なんとも落ち着かない時間が過ぎていきました。

会社を出たときはもちろん明るかったのですが、

走り始めた時点ではもう外は夜。結局東京都を出て埼玉に抜けたのは、

出発から8時間が経過したころです。

 

「帰るのは危険だ」と言われた意味を理解したワンセグの映像。

帰るのは危険 と会社の周りの仲間から言われていました。

移動中、何度かそういう連絡をもらいました。

その理由はワンセグの映像を見てすぐに分かりました。

 
9.0 Earthquake in Japan - Massive Tsunami(Natorigawa River,Sendai, Japan)

これをリアルタイムに携帯の映像から見ていました。

その時は、「そうか、今からこういう映像が流れた現場に行くのか。」という

気持ちでありながら、「本当にこれが地元なのか」といったような

複雑な気持ちでありました。

確かに、車で戻っている最中は、「街が壊滅」といったあいまいな

情報の共有が多かったので、帰るのは危険と仲間が声をかけてくれるのも

仕方ないなと思いつつ、それでも、もちろん帰りました。

 

衝撃的だった2つのニュースのコメント

移動の合間に聞いた中で、2つの衝撃的だったフレーズがあります。

宮城県仙台市若林区の荒浜で200名~300名の遺体が確認

仙石線が行方不明

といったものです。

どっちも、言っている意味が分からず、理解に苦しみました。

 

荒浜というと、仙台の中心部の高層ビルから見える場所ですし、

荒浜の方からも、仙台の都心部がビルの並びをヒントに見ることができるくらいの距離感。

そんなところで200~300名の遺体っていうのは大変驚きました。

(初期報道がその人数でしたが実際はもっととんでもない被害だったことは言うまでもありません。。)

仙石線といえば、仙台と石巻を繋ぐ在来線です。

仙石線 (1).png

Wikipedia 仙石線 より

予備校に通っていた時などは毎日乗っていたし、そんな路線の車両が「行方不明」

と聞いて本当に驚きました。電車が「行方不明」というのは人生で初めて聞いたと思います。

今、考えても、衝撃です。

 

 途中、千葉でスーパー銭湯に浸かる。

同乗者同士で運転を交代しながら動いていたり、車上でストレスも溜まっていたので

千葉で道端にあった銭湯に立ち寄りました。

(今考えると千葉を通るというのはちょっと迂回したということだろうか。

交通状況からそのようになったのかもしれません。)

ここで、震災のニュースを改めてテレビで見た時には、気仙沼が火事になっている映像が

流れていました。あまりにも広範囲の火事でした。

私としては石巻の状況も知りたかったのですが、結局石巻は当時マスコミもほとんど入れず、

結局映像として見ることができるようになるのは、翌日、早朝の石巻の惨状の映像からでした。

すっきりしたところで、一気に北上。いよいよ福島県に入っていくことになりました。

 

初日の震災は、地震津波。2日目は、原発


大きな地図で見る

 おおよそこういうルートを走ったわけですが、

(細かな迂回は数えきれないくらい行いました。)

これまた会社の仲間から、「原発に注意して!」というメールが

福島を走っているあたりにちょうど届きました。

確かに原発に関するニュースをやっていたわけですが、

最初、それが震災との関連のものであるということとわかっていませんでした。

ただすぐにそれが地震津波の被害を受けてのものと理解しました。

基本的に東京から車で北上する場合は、

上の地図のように、国道4号線を通って北上するルート、

そして、国道6号線を通って北上するルートの大きく2つ。


大きな地図で見る

 こういうパターン。もしこういうルートを通っていたら、

まさに福島の原発の付近を通過することになっていたので、

それを考えるとあとから少し怖くなりました。

 

郡山で奇跡の給油。

福島を走っている夜中は、怖かったです。

夜なのに電気が全て消えており、コンビニすら消えている状態。

また、ガソリンも心配でした。東京から一度も給油せずに車を走らせていたので、

途中でガソリンが切れることもリスクだったのです。

(それをわかって車を走らせていたのだからこれもゾッとします。)

この時、おおよそのガソリンスタンドがやっていなかったのではないかと記憶しています。

ただ2日目の日中、たまたまやっていたガソリンスタンドがあり、

給油の機会を得ることができました。

 

結局、仙台についたのは東京を出発して、およし27、28時間後。

なんとか、仙台に到着した時には、3月12日の17時くらいを回っていたかと思います。

ここの時点で家族と連絡が取れなかったのは同乗した仲間の中では私ひとり。

(結局、親と連絡が取れた=会えた になるのですが、それは数日後のことでした。)

大変長い工程で、ここで一緒に時間を過ごした会社のメンバーとは結束が高まったように思います。

 

 

 

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今日の朝、東京から高速バスで仙台に向かい、今は仙台から石巻に向かう車中にて、

本エントリーを書いています。

なんだかんだ、長いようで短い1年だなと思いましたが、

今日を迎えやっぱり、短かったです。

若干記憶のズレが出ているかもしれませんが、この記憶は改めて思い出すと

結構はっきりしているものです。

ビルで地震をくらい、神保町を歩いているあたりに、おそらくは津波が日本国土に到達したのだと思います。

そして暗い中を走り抜けている間にたくさんの街が火事に見舞われたのだと思います。

そんな、大変な日であり、大変な日々の始まりでもあった、2011年3月11日金曜日のことを

絶対に忘れずに、前に進んでいこうと思います。

これから親と対面です。